心への語りかけ

長くてあっという間の2ヶ月が過ぎようとしている。兄からの電話で母の訃報を知ったとき思ったこと―――お母さん、今日なんだね―――

母は生まれたときから心臓が弱く、子どもの頃は登り坂を少し上がっただけで呼吸が苦しくなるほどだったらしい。小学校入学を1年遅らせ、体育の授業はずっと見学していたそうだ。母方の祖母は母が生まれてから9ヶ月後に亡くなっている。遺伝の影響もあるだろうが母の身体はひと際小さく、クラス一小さかった私でさえ小学5年生のときに母の身長を越したほどだ。

そのような話を聞いていたので、母が50代、60代となっていくに連れ一抹の不安と元気でいることへの感謝の気持ちが複雑に入り混じるのを感じていた。そして70代になると同時に世界に大混乱が起きた。県を跨いでの移動に制限がかかり、それまで年末年始しか帰省しなかった私は焦った。電話で連絡をとる頻度こそ増えたが、やはり顔を見ない期間が長すぎるのは不安を増大させ、ストレスになった。行動制限が緩くなるとすぐに会いに行き、互いの健康を確認して安心を得た。この少し前に、母は新型コロナウイルスではない感染症で入退院していたそうだ。入院に際して私に連絡が来ることなどなかった。――「心配するから連絡しない」ーー父はそういう人である。そんな父に対抗し、私は「心配なんかしないから連絡して!」と言った。目茶苦茶な親子である。

多くの高齢者によくある歯周病菌由来の細菌性感染症で2度の入退院をした母のことを考えると、もしかしたらいつか・・・という思いがよぎった。平均寿命からするとまだ若いと言われる70代前半ではあるが、幼少期の病気のことを考えればやはりそのような想像をしてしまうものだ。そしてそのときが来た、ということなのかなと思った。

 

あの日から49日間、母のこと、実家の父と兄のこと、自分のこと、いろいろ考えてきた中で、四十九日法要の日が近づくに連れてある緊張感が増幅していった。

――どこに納骨するか――

昔からある墓地は墓石の下部に納骨スペースがなく、30年近く前に敷地内に設置した納骨室建屋があるのだが、長年使われなかった扉の鍵が開かなくなり父が工具でぶっ壊して開けたまま修理されていない状態だった。鍵のかからない建物に大事な母のお骨を置くなんて、私としては不用心だし言語道断だと思っていた。父は育ちの影響もあるためか物に対する執着が異様に強く、仏壇スペースのある居間にそのまま置いておきたいと言った。(父の第二希望は納骨室。)兄は人とのコミュニケーションが苦手で、お寺に預けるとお寺との関わり・連絡の頻度が上がるのではと懸念し、納骨室に納めようと言った。お寺の住職は、「お墓に納骨できないのであればお寺で預かって供養していきますよ、ここ(実家の居間)は生活の場ですのであまりお推めはできませんのでね…」というようなことを仰った。私の意向はお寺での供養一択だったので、3人の要望が全てバラバラになった形だ。その日のうちに彼らを説得することはできず、法要前にまた話そうということで一度引き下がった。

そして法要の数日前から説得の方法をあれこれ考え、お寺に納める意味やら理由(うちはいずれ永代供養になる)やら、話の順序を組み立てたりしていよいよ準備万端!と思いながら帰省し、「で、どうするか決めた?納骨室にするの?」と発した自分に違和感を覚えた。「有意義な正論を組み込んだ説得方法」を頭の真ん中に据えているのに何故か、父と兄の意向を汲む発言が意図せず出てきたのである。話しながら不思議に思ったし、父と兄の「それ(納骨室)でいきたい」という返答に「じゃあそうしよう」と言った自分に更に困惑したが、話し合いが1分もかからず終わったことに安堵する自分もいた。

あんなにいろいろ考えたのにあれは何だったのだろうと、後で考えてみた。きっと母だ。「お墓(納骨室)でいいよ」と。

人は眠っている間に魂がスピリチュアルワールドに帰省していると本で読んだことがある。そこからより良く生きるためのヒントを得て目覚めるのだと。夢で見せるわけでもなく、でも確実に私の潜在意識に「あれ」を植え付けたのだろう、と思うことにした。実際にあの土地、あの実家に住んでいるのは私ではなく父と兄である。あまり私が自分の意向を押し付けるのはお互いにとって良くないのだと、母は教えてくれた。実はお寺からお墓への道すがら、車内で兄と少し口論になった。兄は「最近〇〇(私)は命令口調だよな、ムカつくな」と言った。言葉を組み立てるのが苦手な兄への思いやりに欠けた私の正論にまともな大人の言葉で返せない苛立ちを露わにしたのだ。

私は少し後になって反省した。